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アスリートインタビュー

パラサイクリング
トラックレース & ロードレース

藤田 征樹 (ふじた まさき)

日立建機株式会社 チーム・チェブロ所属

2007 世界選手権自転車競技大会(ボルドー) 1kmタイムトライアル 銀
2008 北京パラリンピック 1kmタイムトライアル 銀
2008 北京パラリンピック 3km個人追抜 銀
2008 北京パラリンピック ロード/タイムトライアル 銅
2009 世界選手権自転車競技大会(マンチェスター)1kmタイムトライアル 金
2009 世界選手権自転車競技大会(マンチェスター)3km個人追抜 銀
2012 ロンドンパラリンピック ロード/タイムトライアル 銅
2015 世界選手権自転車競技大会(アペルドールン)3km個人追抜 銀
2015 世界選手権自転車競技大会(ノットヴィル)個人ロードレース 金

2007年、トライアスロンから転向しパラサイクリングの世界に飛び込んだ藤田征樹さんは、翌年2008年に行われた北京パラリンピックで銀メダル2つ、銅メダル1つを獲得する快挙を成し遂げました。会社員としてフルタイムで働きながら世界の舞台で活躍する藤田さんに、ここまでの道のりや競技の魅力、今後の目標までお話を伺いました。

切断するか、温存するか──19歳の決断

地元が北海道だったので中学生までスピードスケートをやっていました。もともと身体を動かすのは好きでしたね。高校では陸上をやっていましたが、大学に入ってからは何か別のことをしたいと模索していたところにトライアスロンと出会いました。事故に遭ったのはトライアスロンを始めてすぐ。2ヶ月後に初めての大会を控え、トレーニングをしていた矢先のことでした。その時、医師に言われたのは「足を温存したとして、歩くことはおそらくできない。切断して義足をつければ歩けるようになる可能性がある」ということでした。
この言葉を聞いた時に、こう思いました。「歩けるようになるなら、たぶん走れるだろう。自転車にも乗れるだろう。それならトライアスロンにも復帰できるだろう」と……。切断するか温存するか――当時19歳だったのですが、両親はその判断を自分に任せてくれました。勝手な思い込みだったかもしれないですけど、たまたま事故に遭う前に、アメリカの片足膝下のないトライアスロン選手のドキュメンタリーを観ていたことや、義足の日本人選手の記事を雑誌で読んでいたことで、きっと復帰できると確信が持てたのかもしれません。
もちろん気持ちがマイナスになって落ち込む時期もありましたが、その状態がずっと続くことなく、早い段階で上を向くことができたのは本当にラッキーだったと思います。事故から半年後には大学に復帰し、大学から大学院に進む中でもトライアスロンはずっと続けていました。機械工学専攻でしたが、「本当は自転車体育専攻じゃないか」というくらい、熱心に取り組んでいました(笑)。

2007年パラサイクリングと出会う

パラサイクリングに本格的に取り組むようになったのは、2007年に力試しで同競技のレースに参加したことがきっかけでした。その時に「フランス・ボルドーの世界選手権に出ないか」と声をかけていただいたんです。
目標にしていたトライアスロンの大会と時期が重なっていたので、正直かなり悩みました。でも自転車の本場、フランスでの大会に出られるチャンスはそうそうないと思い、トライすることに。それが北京パラリンピックの1年前のことです。この時点ではまだパラリンピックは意識もしていませんでした。
僕が力を入れて取り組んでいるのは、中長距離のタイムトライアル系種目。ひとりで規定の距離を走るという自分との勝負ともいえるもの。自分の走る感覚はとても大切ですが、自転車はペダルを踏むパワーなどを走りながら計測できるユニークな競技でもあり、そのデータを使ってペース配分など客観的に評価もしていきます。同じ自転車でもトライアスロンとはルールも走り方も全く違う。最初は戸惑いもありましたが、もともと自分の身体の使い方については興味があり、どんな風に工夫したらうまく動けるようになるのか、より速く走ることができるのか…そういうことを考えるのが好きだったので、パラサイクリングにのめり込んでいくのに時間はかかりませんでした。国際大会への出場を重ねていくうちに徐々に北京パラリンピックを意識するようになりました。

リオでの金メダルに向けて

北京そしてロンドンではメダルを獲りましたが、悔しい思いもしました。今の目標は、2016年のリオ大会で金メダルを取ること。そこに向けて日々トレーニングを積み重ねています。日中にトレーニングが出来る日は山や平坦公道を走り、夜間は自宅でエアロバイク等を使って練習しています。フルタイムで会社に勤めながらですから、練習時間は限られています。それでも僕は恵まれている方。だからこそ結果を出すことで競技全体を盛り上げていければいいなと思っています。
それからもう一つ、健常者と同じレースを戦って活躍したり、そこで勝つこと。年間で健常者大会に数十レース出場しますが、すべてのレースで活躍できるわけではなく、まだ力の及ばないレースも多い。これは悔しい部分でもあり挑戦の部分でもある。そういう大会に参加すること、そしてそこで勝つことはもちろん僕の自信につながります。でもそれだけではなくて、自転車が好きな人たちや、同じ競技をしている多くの人たちにパラサイクリングの事を知ってもらえるきっかけになると思っています。そしてもし私を見て、何か前向きな気持ちを持ってくれる人がいるのなら、それに越したことは有りません。

  • スポーツオブハートは、障がい者も健常者も共に支えあうライフスタイルの提案をしています。街で車いすの方と遭遇した際、健常者はどのように接すれば良いでしょうか。
  • 障がいがある・ないというところでの敷居が、今よりももっと低くなればいいとは思いますね。声をかけるとしたら「大丈夫ですか?」と深刻に聞くよりは「何か手伝うことあります?」と軽く言ってもらえたらいいんじゃないかと思います。そのためには、障がい者の方こそ頑張らなくてはいけないことも多いと思います。回りの人に理解をしてもらうための努力というのは、お互いに必要なことだろうと僕は思っています。パラサイクリングの話になりますが、この競技が「障がい者スポーツのひとつ」ということではなく、「自転車競技のカテゴリーのひとつ」という見方がもっと広がってくれればいいなと思っています。

パラサイクリングは、自転車の種類によって4つの分類「タンデム(Bクラス)」「二輪車(Cクラス)」「三輪車(Tクラス)」「ハンドバイク(Hクラス)」。二輪車の部門は障害度合によって5つのクラスに分かれ、藤田さんは二輪部門の真ん中のクラス「C3」にあたるとのこと。しかし練習風景を見学していると、障がいがあるようにはまるで見えない走りっぷりに目を奪われます。とにかく早く、そして美しいフォルムで駆け抜ける姿はまさにトップ・アスリートの貫禄! 背筋をピンとはって歩く姿も、知らない人が見たら、まさか義足とはわからないはず。藤田さんに聞いてみると、キレイな歩き方にはこだわって練習したとのこと。やはり日々の練習、積み重ねが結果を生み出すのだと感じました。
(草野)

ウィルチェアーラグビー

島川 慎一 (しまかわ しんいち)

BLITZ所属・ウィルチェアーラグビー日本代表
障がい / 頚髄(けいずい)損傷

2016年のリオパラリンピックに向け、目下邁進中のウィルチェアーラグビー日本代表・島川 慎一さん。
24歳で同競技に出会ってから今日まで、全力で走り続ける島川さんに競技の魅力やご自身のこれまでのこと、
そしてこれからのことをお話いただきました。

激しさと迫力が魅力

初めてウィルチェアーラグビーをご覧になるとみなさん驚かれるのですが、この競技の特長は、なんといってもその激しさと迫力です。僕自身も初めて見た時に、車いす同士がぶつかり合う激しい音に強い衝撃を受けました。かつてマーダーボール(殺人球技)と呼ばれていた歴史もあるほど激しいスポーツ。それでいて、繊細で戦略的でもあります。
ウィルチェアーラグビーでは、障害のレベルによって各選手に持ち点(クラス)が付けられます。持ち点は0.5〜3.5点まで0.5点刻みで7クラスに分類されており、障がいの状態が軽いほど高くなります。1チームは最大12名で編成され、コート上の4選手の持ち点が合計8点以内になるように編成しなければなりません。競技では専用の車いすを使用しますが、持ち点の高い攻撃の選手と持ち点の低い守備の選手とでは装備が異なります。攻撃、守備のそれぞれがどんな風に動いているのかがわかってくると、より試合が面白くなってくると思います。

負けず嫌い、ただそれだけ

僕は21歳の時に、仕事中の事故で車いすの生活に。その3年後、ウィルチェアーラグビーに取り組んでいた知人に誘われるがまま見学に行きました。それから2回練習に出ただけで、すぐ日本選手権大会に出場。ルールをあまり知らないまま大会に出てしまったんですが、そんな僕がここまで日本代表としてやってこられたのは、とにかく「負けず嫌い」だから。ただそれだけです。
現在、僕はベンチスタートですが、自分がコートに入ったときは僕のスピードと経験で相手のリズムを壊してやろうと思っています。チームスポーツはなんでもそうですが、ベンチを含めた全員が機能しないとダメだと思います。僕らが控えているからこそ、メインラインが思い切りやれる。もっと言うと、出られなかった選手たちの想いがあるから頑張れるんだと思います。現在、国内の競技人口はおよそ100名。その中の12名ですから、責任重大だと感じています。
ちなみに、僕の背番号は「13」です。よく「不吉な背番号を選ぶね」って言われるんですけど、これには僕なりに意味があります。ちょっと照れくさいですけど……ベンチ入りできなかった13人目の仲間の想いを、いつも忘れたくないと思っているんです。

1番いい色のメダルを

今、1年後に迫るリオパラリンピックに向けて、徹底的な走り込みを中心にウェイトトレーニングを重ねて、海外の選手に負けないための「走り続けるための筋肉」をつけています。
僕は今年で日本代表選手に選出されて15年目、これは日本代表としては最長だそうです。海外を見渡してみても、昔ライバルだった選手が監督をやっていたり、どんどん選手が入れ替わっているなかで、自分の経験をチームに還元しながら今できることを精一杯やっています。現状維持というと甘えているように聞こえるかもしれませんが、年齢を重ねていく身体をこれまで通りに保つというのは、むしろ流れに逆らっているのと同じこと……実はすごく大変です。でも、僕にはやり残したことがあるから、まずはリオで一番いい色のメダルを、そして2020年の東京でもなんとか代表に食らいついていきたいと思っています。これはもう自分との戦いですね。

  • スポーツオブハートは、障がい者も健常者も共に支えあうライフスタイルの提案をしています。街で車いすの方と遭遇した際、健常者はどのように接すれば良いでしょうか。
  • 障害者といっても人それぞれ程度が違いますから、僕は「手伝いましょうか」ではなくて「手伝いは必要ですか」と聞いてもらうのが嬉しいですかね。親切に積極的に車いすを押してくれる方もいらっしゃるんですが、人によっては押されたくなかったり、急に押されると危険だったりすることも……。僕たちは、基本的には助けが必要な時はお願いをするつもりでいます。だから、「助けたい」と思ってもらうことは本当にありがたいことですけれど、「手伝わなきゃ」と気負わなくて大丈夫。自分でできることは自分でやるように努め、お願いしたときは手伝っていただくというように、お互いが気持ちよく過ごせる世の中になっていくといいなと思います。

もともと健常者の頃はチームスポーツが苦手だったという島川さんですが、仲間思いな言葉に溢れていて、ウィルチェアーラグビーが島川さんに大きな影響を与えたことがお話を通してうかがえました。その後、実際にプレーしている姿も見せていただのですが、島川さんのお話どおり、その激しさにびっくりしました。選手の皆さんの気迫溢れるプレーにすっかりファンになりました!
(矢島百絵)

パワーリフティング

三浦 浩 (みうら ひろし)

パワーリフティング日本代表

2015 IPF世界マスターズベンチプレス選手権大会M2,59kg級 優勝
2015全日本障害者パワーリフティング選手権大会49kg級 優勝
2014全日本マスターズベンチプレス選手権大会59kg級 優勝

仕事中の怪我がきっかけで、2005年、パワーリフティングの世界に入った三浦 浩(みうら ひろし)さん。
コツコツと地道なトレーニングを積み重ねて着実にステップアップを遂げ、2015年春には、見事、世界チャンピオンのメダルを勝ち取るまでに至りました。
そんな三浦さんに、これまでの仕事のことや今後の目標など、さまざまなことについてお話いただきました。

目標を掲げて達成するということ

私が「パワーリフティング」に取り組むようになったのは、仕事中の怪我がきっかけでした。当時、私はギターテクニシャンをしていました。ギターテクニシャンというのは、コンサートなどの現場で、ギターのメンテナンスや管理を行う仕事。この仕事に就く時に掲げた目標は、当時から好きだった「長渕剛さんのライブスタッフになる」ということでした。数年後には念願叶って、1990年の「Jeep」ツアーから、ずっとスタッフとして参加していました。2002年、あるアーティストのコンサート会場での機材搬出中に怪我をしてしまいました。フォークリフトの下敷きになって病院に運ばれたのですが、その日のうちにお医者さんから「三浦さん、もう下半身は動きませんよ」とあっさり言われたんですね。はっきり言われたことが良かったと、今でも思います。「下半身が動かないなら、ツアーの仕事に復帰したときに自分は何ができるのか」ということを、すぐに考え始めることができましたから。また、入院先に長渕さんが連絡してきてくれて、「すぐに東京に戻ってこい。病院はこっちで手配したから」と言ってくれたのも大きかったですね。病院の理解もあって、数カ月後には入院先からコンサート会場に出かけて、ギターテクニシャンの仕事に復帰しました。

健常者も障がい者も一緒に競い合える
「パワーリフティング」

ずっと音楽一筋でしたから、筋力トレーニングには全く興味がありませんでした。その昔、一度だけ長渕さんのお宅に遊びに行った時に筋トレを試したことがあるのですが、普段使わない筋肉を突然使ってしまって、とにかく大変だったのを覚えています。事故後は上半身しか使うことができなくなりましたから、リハビリの一環として筋トレを始めました。「パワーリフティング」を志すようになったのは、アテネのパラリンピックを見たのがきっかけです。「パワーリフティング」という競技は、スクワット、ベンチプレス、デッドリフトの3種目で重量を競い合い、トータル重量で順位を決定するもの。身体が動く限り何歳になってもできるスポーツで、日本には80代の選手の方も普通にいらっしゃいます。パワーリフティングは視覚、聴覚障がいを持つ障がい者も、健常者と対等に出場できるスポーツ。下肢障がいの選手はベンチプレスのみですが、健常者と同じ条件で競い合うことができます。今年の4月にアメリカで行われたIPF世界マスターズベンチプレス選手権大会に参加したんですが、そこで初めて50代の部で世界チャンピオンのメダルをもらうことができました。この大会は、健常者も障がい者も一緒に競い合える大会です。

東京オリンピックまでは、
パラリンピックの選手として頑張りたい

長渕さんのライブスタッフはその後も続けて、2011年まで勤めさせていただきました。トータルで21年、全国各地のコンサート会場を回ってきたわけですが、事故後も仕事を続けてこれたのは、長渕さん、そして周りのスタッフが私の障がいを理解しサポートしてくれたおかげでした。2012年のパラリンピック日本代表になった時も、長渕さんにはとても喜んでもらいました。今は障がい者スポーツ支援をしていただける企業に勤めながら、CSRの一環として、障がい者への理解 ・認識を上げ、障がい者雇用を推進するための活動を社内外で積極的に行っています。思えばずっと、環境には恵まれていますね。50歳を過ぎた今、次の自分の目標は2020年の東京オリンピックまでは現役のパラリンピックの選手として頑張っていこうということです。そして、身体が動く限りはこの競技を追求していきたいと思っています。

  • スポーツオブハートは、障がい者も健常者も共に支えあうライフスタイルの提案をしています。街で車いすの方と遭遇した際、健常者はどのように接すれば良いでしょうか。
  • 僕が障がいを負った14年前は、まだ駅にエレベーターがあまり普及していなかったのですが、最近はずいぶん普及してきました。エレベーターさえあれば、ほとんどのところに行くことができますし、車いすが壊れない程度にという前提ではありますが、ひとりで階段を降りることもできるんです。だから、時々「大丈夫ですか?」と声をかけられるんですけど、「大丈夫でーす!」と答えてますよ(笑)。たとえば、学校などで障がいについてや高齢者への配慮などをユニバーサルに学べば、心のバリアフリーも変わると思うんですよね。僕らは呼ばれたら、どこでもボランティアで指導に行くことにしていますから、ぜひ呼んでいただければと思います。そうやって、障がいに対して理解を深めてもらうのがいちばんいいのではないかと思います。

「もう下半身は動きませんよ」と病院の先生から宣告された話に差し掛かった時、心が張り裂けるような思いに包まれました。もし私だったとしたら、どんな気持ちになるだろうという思いがよぎったからです。しかし、三浦さんは淡々とおだやかに「はっきり言われてよかった」と打ち明けてくれました。自分の置かれた状況を冷静に見つめ、そこで最善の道を見つける判断力は、おそらく即断即決が求められるライブ現場で鍛えぬかれたもの。三浦さんの人生を垣間見ることができた瞬間でした。
(草野恵子)